微分の前にあるもの

「なぜ微分するのか」が分からない。

かつて、一人の塾生が問題を持ってきたことがあった。
「この問題が分かりません」と。

\(0≦x≦2πにおいて、\)
\(y=x-2sin xの最大値・最小値を求めよ\)

という問題だった。

彼のノートを見ると、
$$y’=1-2\cos x$$
と書き始めている。

そのあとには、やや唐突に過ぎるが、

$$1-2\cos x=0$$
$$2\cos x=1$$
$$x=\frac12\cos$$

と続いていた。

思わず、そのノートをしばらく見つめてしまった。
もちろん、この式変形に意味はない。
本人も、なぜそう書いたのか説明できなかった。
「できることを書いてから考えよう」とは、伝えていたから、とりあえず手を動かしたのだろう。
しかし、数学の約束を外れた操作では、どこへも辿り着けない。

学校の先生の解答も見せてもらった。

$$cos x=\frac12$$

と直し、三角方程式を解き、増減表を書き、最大値・最小値まで丁寧に求めてある。
解答にいたる流れは分かる。

だが、その生徒は理解できていなかった。
理由は単純だった。
彼は、「なぜ微分するのか」を知らなかったのである。
考えたことがなかったからである。

私は聞いた。
「なんで最初に微分しようと思った?」
少し黙ってから、
「微分の単元だから」
と答えた。

その一言で、私は腑に落ちた。
だから解けないし、分からないのだ。

この際、微分は手順ではない。
グラフがどのように動くのかを知るための道具であり、接線の傾きを調べるための道具であり、増えるのか減るのか、極値はどこにあるのかを知るための道具だ。

グラフが描ければ、最大値も最小値も見えてくる。
だから微分する。
目的があり、そのための手段として微分がある。

ところが彼の中では、
「微分の単元だから微分する」
という処理の話になっていた。

だから、単元が変われば忘れ、少し形が変われば困惑する。
理解として積み上げた知識ではなく、その場限りの操作だけで問題にあたろうとする。
そして、やがて「自分だけの数学」「独自のルール」が顔を出す。

今回の\(2\cos x=1\)を\(x=\frac12\cos\)としてしまったのも、その一例だった。

そのあと、増減表を書かせた。
y’の欄にはプラスとマイナスの記号が書かれている。
yの欄、端点と極値の値を代入計算で求める前に、上欄にあるプラスとマイナスの記号を頼りに右上がり矢印と右下がり矢印を書き込ませた。

そこで尋ねてみた。
「最大値の候補(☆)と最小値の候補(△)が見つかるはずだから、極値を計算するまえに、それぞれ印を記入してみて」と。

彼は見事に逆へ印を付けた。

私は言った。
「率直に言う。今の君には、この問題は解けない。」

意地悪で言ったのではない。
矢印の意味が読めていない状態で、極値を判断できるはずがないからだ。

「一週間、最初から考え直してきなさい。」
そう伝えた。

「なぜ、その操作をするのか。」
「この結果は何を意味するのか。」
そこを考えない限り、問題が少し姿を変えただけで思考は止まる。
それを実感、自省するには、一週間程度は自力で悩ましいものに向き合う必要はあるだろう。
私はそう考えた。加えて、彼を信じた。
理を追え。
頑張れ。

数学とは、公式を当てはめる競技ではない。
何を知りたいのかを考え、そのために必要な情報を集め、その情報から次の一手を決めていく営みである。
その順番が身についたとき、初めて数学は「覚えるもの」ではなく、「考えるもの」になる。私は、そう思っている。


【補編】ラジアンの世界で考えるということ

この問題を見ていて、もう一つ気になったことがあった。
実は、学校の先生の解答では、

$$\cos x=\frac12$$
から、

$$60^\circ,\ 300^\circ$$
を経由して、

$$\frac{\pi}{3},\ \frac{5\pi}{3}$$
と書き換えていた。

もちろん、最終的な答えとしては正しい。
だから、それを間違いだと言うつもりはない。

ただ、私は少し気になる。
この問題は、最初からラジアンで書かれている問題だからだ。
微分公式
$$(\sin x)’=\cos x$$
が成り立つのも、変数 (x) をラジアンで測っているからである。

もし度数法を変数として考えるなら、

$$(\sin x^\circ)’=\frac{\pi}{180}\cos x^\circ$$
となり、導関数そのものが変わってしまう。
つまり、微分という道具は、ラジアンという世界の上に立っている。

そう考えると、途中だけ度数法へ移り、最後だけラジアンへ戻るという解き方には、少し居心地の悪さを感じる。
もちろん、頭の中で60度を思い浮かべるのは自由だ。
私自身も、ときにはそうする。
だが、答案として残すなら、最初から最後までラジアンで統一したほうが美しいと思う。
生徒にもそう話している。

見えないところで度に直して考えるのは構わない。
しかし、紙の上ではラジアンの世界を崩さないほうがいい。

高校生がそこまで意識することは、難しいかもしれない。
けれど、教える側は知っておくべきことだろう。
「60度だから π/3」

そんな変換を機械的に繰り返しているだけでは、微分という操作が、どんな前提の上に成り立っているのかを考える機会を失ってしまう。
数学は、計算だけでできているわけではない。
その計算を支えている世界そのものを、ときには眺めてみることも大切なのだと思う。

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