夕暮れが近づくと、教室の隅に長い西日が差し込んできた。
私の主宰する小さな塾に通う中学生の少女が、シャープペンシルを握ったまま、じっと手元を見つめている。
机の上にある、一枚のプリント。
そこには、二つの金魚鉢と、それを一つに合わせた大きな水槽のイラストが描かれていた。
夕暮れが近づくと、教室の隅に長い西日が差し込んできた。
私の主宰する小さな塾に通う中学生の少女が、シャープペンシルを握ったまま、じっと手元を見つめている。
机の上にある、一枚のプリント。
そこには、二つの金魚鉢と、それを一つに合わせた大きな水槽のイラストが描かれていた。
文字を使った式を習ったころのことを、いまでも少し覚えている。
最初に学ぶのは、書き方の約束だった。
$$
3\times a=3a
$$
$$
x\times y=xy
$$
掛け算の記号を省く。
ただ、それだけのことだった。
「いま、確率の問題を解いているんですけど」
そう言って、彼女はノートをこちらへ向けた。
そこには、こんな問題が書かれていた。
20本のくじがあり、そのうち5本が当たりである。
a、bがこの順に1本ずつくじを引く。
ただし、引いたくじは戻さない。
問1 aが当たりを引く確率を求めよ。
問2 bが当たりを引く確率を求めよ。
問3 aもbも当たりを引く確率を求めよ。
\( \sqrt{2} \) なら、概数を知っている人も多いかもしれない。
有名な語呂合わせがある。
人夜人夜に人見頃。
漢字で書く機会はあまりない。
けれど、音の並びとしてなら、多くの人の記憶に残っている。
$$
1.41421356
$$
この数を二乗すると、ほとんど2になる。
実際、
$$
1.41421356 \times 1.41421356 = 1.999999993287874
$$
である。
“見知らぬ小数” の続きを読む
白い紙の上に
$$∣a−b∣=∣b−a∣$$
と書く。
教室は静かだ。
「これ、どう思う?」
そう聞くと、多くの生徒は、
「たぶん、そうです。」
と答える。
理由は説明できない。
けれど、違うとも思えない。
その曖昧な頷きを、私は嫌いではない。
一方で数学は、その「たぶん」を、そのままにはしない。
私は生徒のノートに
$$
|a|
$$
と書いた。
彼女はすでに、| |が絶対値の記号であることは知っている。
その中身が具体的な数ならば何度も扱っている。
\(
|5|=5
\)であり、\(
|-5|=5
\)であることも知っている。
彼女にとって絶対値は、すでに片づいた話だった。
私は続けて
$$
|a|=
$$
とだけ書き足した。
“二つの誤答 — 理解が生まれる少し前” の続きを読むなにしろ絶対値という名前である ―。
絶対値という言葉を扱うたび、少し不思議な気分になる。
最大値なら分かる。
いちばん大きい値だ。
最小値もそうだろう。
極限値は少し難しいが、それでも「限りなく近づく先」という気配はある。
だが、絶対値はどうだろう。
何が絶対なのか。
名前だけでは、なかなか見えてこない。
SNSで、こんな問いかけを見かけた。
丸暗記している人も多い。
なぜこの式になるか説明できる?
なるほど、よくある問いだ。
回答欄には、
「対角線を一本引いて三角形を二つ作る」とか、
「それぞれの三角形の面積を求めて足し合わせると、
(上底+下底)×高さ÷2になる」
という説明が並んでいた。
そして出題者も、それらを正解として扱っていた。
もちろん間違ってはいない。
机の上に、一枚の正方形がある。
いや、正確には、これから描こうとしている正方形である。
面積2平方センチメートルの正方形を描きたいと思う。
さて、この正方形の一辺は何センチメートルだろう。
「√2を求めなさい」と書かれると、急に数学らしい顔になる。
けれど、
「面積2の正方形の一辺は何センチメートルですか」
と聞かれると、話は少し違ってくる。
紙の上に描けそうな気がする。
定規で測れそうな気もする。
どこか遠い数学の国の話ではなく、机の上に置ける話になる。
だから、一度描いてみてほしい。
前回の記事の終わりで、私はこんなことを書いた。
「この文章には一つ嘘が混じっている」と。
だが、本当は少し違っていた。嘘は一つではなかったのである。
もっとも、嘘と言ってしまうのは少し気が引ける。正確さを少し後回しにして、まず景色を見てもらいたかっただけなのだ。
今日は、その続きを歩いてみたい。