人間、あまりにも偉大なものに出会うと、逆にどうでもいいはずの「細部」に心を奪われてしまうことがある。
去年の秋、私は神戸でゴッホの『夜のカフェテラス』の本物を見た。 教科書で何度も見た、黄色と青の鮮烈なコントラスト。けれど、私の目を一番に釘付けにしたのは、絵そのものの美しさ……ではなく、それを囲む「額縁」だった。
「……なんか、ちゃちくない?」
いや、失礼なのは百も承知だ。けれど、あの世界的な名画の割には、なんだかその辺のホームセンターのDIYコーナーで調達してきたかのような、妙に素朴で、飾り気のない木枠なのだ。
もっとこう、金ピカでゴテゴテした「どうだ!名画だぞ!」という威厳をまとわせても良さそうなものなのに。ゴッホの激情を受け止めるには、あまりにもその額縁は「普通」だった。そのアンバランスさが、ずっと私の頭の片隅にトゲのように引っかかっていた。

そして今日。私は徳島の大塚国際美術館にいた。 世界中の名画を「原寸大の陶板レプリカ」で再現している、あの巨大な空間だ。そこで私は、再びあの『夜のカフェテラス』と対面した。
そこで私は、思わず心の中で快哉を叫んだ。
「あーーーっ!! 額縁がちゃんと、ちゃちい!!」

そうなのだ。大塚国際美術館の職人たちは、絵の再現だけでなく、私が「ちゃちだな」と感じたあの素朴な木枠までも、そっくりそのままレプリカとして作り上げていた。他のきらびやかな名画たちが、それ相応の豪華な額縁をあてがわれている中で、この絵だけは、やっぱりちょっと「DIY感」を漂わせながら、暗い壁にぽつんと掛かっている。
なぜ、そこまでしてあの素朴な額縁を再現しなければならなかったのか。 気になって調べていくうちに、私はある新聞記事に出会い、深い衝撃と共にすべての謎が解けることになる。
あの額縁は後世の誰かが適当に合わせたものではなかった。ゴッホの才能を初期から見抜き、世界最大のゴッホ・コレクションを築いた女性、ヘレーネ・クレラー=ミュラー自身があえて選んだものだったのだ。
彼女はゴッホを「正直な人」と評した。 だからこそ彼の生々しい感情の表現を邪魔しないために、画商の見栄や美術館の権威という「嘘」を一切排除した飾らない木枠で包むと決めたのだという。
さらに、その絵の具の裏側には胸が締め付けられるような事実も隠されていた。 当時、お金のなかったゴッホは、質の悪い安い絵の具をキャンバスに盛り上げるように厚塗りしていた。そのため保存が極めて難しく、なんと100年以上経った今でも、絵の具の内部は完全に乾ききっていない可能性があるらしい。修復家たちが気の遠くなるようなメンテナンスを施し、奇跡的にあのゴツゴツした筆跡を守り続けているのだ。
乾かない安い絵の具。 それを包む正直で素朴な木枠。
神戸で本物を見たときに感じた、夜の異様な暗さと底から湧き上がるような光の眩しさ。それは、今も絵の中で生き続けているゴッホの生の衝動そのものだった。
そして今日、大塚国際美術館のレプリカを見たとき、なぜか本物よりも絵が「大きく」感じられた。 それはきっと、陶板になったことで絵の具の「ナマモノとしての気配」が消えた代わりに、その背後にあるストーリー――ゴッホの貧しさと、それを「正直に」愛したヘレーネの目線、そして今日まで絵を守り抜いてきた人間たちの執念という、目に見えない枠組みの大きさが、地の上に浮かび上がってきたからかもしれない。
大塚国際美術館が再現したのは、ゴッホの絵だけではなかった。 一人の画家が命を削ってキャンバスに叩きつけた情熱と、それを狂おしいほどの愛で守ろうとした人々の「リレーの歴史」そのものを、あの素朴な木枠ごと、完全に引き継いでいたのだ。
額縁がちゃちに見えたのは、中身の人間たちが、あまりにも本気で、正直だったから。
私は目の前のレプリカを眺めながら、時空を超えて届いた人間たちの不器用な愛の温かさに、いつまでも浸っていた。


