梅雨空と必要十分条件

梅雨の晴れ間の火曜日。
ある塾生が、慎重な様子で問題と向き合っていた。

彼女の前には、次のような問題があった。

\(a=2+3\) であることは、\(a=5\) であるための□である。□には

ア.必要条件であるが、十分条件でない
イ.十分条件であるが、必要条件でない
ウ.必要十分条件である
エ.必要条件でも十分条件でもない

から選び、記号で答えよ。

私は黙って彼女の様子を見守っていた。
おもむろにペンが動き始めた。

命題 \(p\)

$$
a=2+3 \Rightarrow a=5
$$

これを「真」と判定した。
その証明は、\(a=2+3=5\) であるから。
よって、命題 \(p\) は「真」である、と。

高校生に問うには、あまりに自明な事柄であり、幾分戸惑っている様子でもあった。
戸惑いは大事である。
疑問を感じるセンサーは常に抱いていたい。
大切なのは、その戸惑いに自ら臨み、解決することだと思う。

だから、私はまだ口を開かない。
ただ心のうちで、

「 正しく考えて正しいならば、それは正しい」。

と唱えていた。

しばしの後、彼女はこれを「真」と確認した。

つづいて逆の命題を考えようとする。
必要条件・十分条件を検討する基本的な手法だ。

命題 \(q\)

$$
a=5 \Rightarrow a=2+3
$$

こんどは、命題 \(p\) 以上に時間をかけて考えていた。
彼女の判定は「偽」。
反例として、\(a=1+4\) を挙げていた。

なるほど。\(5\)となるのは、\(2+3\) に限らない、というわけだ。
ほかに、\(a=1\times5\) でもいいし、\(a=7-2\) でもいい。
\(a=\sqrt{5}^{\,2}\) だってかまわない。
反例は一例を挙げれば良いので、彼女は、\(a=1+4\) で代表させたのだ。

そして、

$$
\begin{aligned}
p&:\ a=2+3 \Rightarrow a=5 \quad \text{真}\\
q&:\ a=5 \Rightarrow a=2+3 \quad \text{偽}
\end{aligned}
$$

とまとめた。

その脇に、

$$
\begin{aligned}
p&:\ a=\text{犬} \Rightarrow a=\text{動物} \quad \text{真}\\
q&:\ a=\text{動物} \Rightarrow a=\text{犬} \quad \text{偽}
\end{aligned}
$$

と、記憶からメモを取り出したように書いたのが、かわいらしかった。
\(a\) のお話と比べているのだった。
確実に利用できるものを思い出すのは、方法論として素晴らしい。

私も同じような意味で、

「似たことをやったことはないか」
「確実だと言えることはないか」

と思い出してね、と塾生に伝えている。

犬と動物。
こちらの「集合」は分かりやすい。

$$
\text{犬} \subset \text{動物}
$$

だ。

つまり、犬であることは、動物であるための十分条件であり、必要条件ではない。
彼女は、問題の解答を「イ」とした。

誤ってしまった。
正答は、「ウ」。
必要十分条件である、だ。

「残念。どこで間違ってしまったのか、考えてみようか」
私は彼女に話しかけた。

もちろん、即答は難しいだろう。
しっかり考えて、確実だと言えることも利用しながらたどり着いた解答だ。
そして、彼女の思考を観察してきたから分かるが、この間違いは気づきづらい。
間違い、というよりも、勘違い、思い込みに近いものだと思うから。

私は説明を始めた。
「間違ってしまったのは……」

命題 \(q\)

$$
a=5 \Rightarrow a=2+3
$$

を「偽」としてしまったことだった。

「\(a\) が5となる演算は、\(2+3\) に限らないでしょう?」
というのが、彼女の主張だった。
この言葉そのものは、誤りではない。
だが、記号「=」には、そこまでの機能はない。
「=」は、その両辺が等しい、ということだけを伝えている。

\(2+3\) という式も、\(1+4\) という式も、\(7-2\) という式も、\(\sqrt{5}^{\,2}\) という式も、それぞれ見た目は違う。
しかし、「=」が見ているのは、その見た目ではない。

『表している値だけである』

だから、
「命題 \(q\) は、こう読まなければいけなかったんだ。
\(a\) が\(5\)に等しいならば、\(a\) は \(2+3\) に等しい。
ただ、それだけ」。

おそらく彼女は、無意識のうちに、命題を書き換えてしまっていたんだろうと思う。
「\(a\) は \(2+3\) という形でしか表されない」と。

だから、さっきも
「\(a\) が5となる演算は、\(2+3\) に限らないでしょう?」
と言っていた。
そこが勘違い、思い込みだった。

彼女の考え、あるいは気持ちといった方が良いかもしれないが、それは分からないわけではない。

小学校以来、

$$
2+3=5
$$

を、

「2たす3は5(です)」
と読んできたから。

だから、

$$
5=2+3
$$

を、

「5は2たす3(です)」
と読んでしまう。

そして、そう言われると、
「いや、1+4でもいいじゃないですか」
と返したくもなる。

この問題は、必要・十分条件を考える問題というよりは、等号「=」の意味を改めて考える問題だった、ととらえた方が良いのかもしれない。

\(2+3\) と \(5\) は、たしかに別物。

だが、

$$
2+3=5
$$

と記したときは、その値しか評価はしていない。

日常生活での感覚や、小学校以来の習慣は根強く、頭や体に残っている。
それは、けして悪いことではない。
ただ、論理を追うときにも、ときどきその習慣が顔を出し、記号そのものではなく、自分が補った意味を読んでしまうことがある。

そんなときは、一度、問題文を記号どおりに読み直してみるとよい。

「=」を見たら、「は」ではなく、「に等しい」と読んでみる。

たったそれだけでも、自分でも気づかないうちに書き換えてしまった意味が、元の姿に戻ることがある。

梅雨空の向こうには、もう夏の空が輝いている。
人は何を見て季節を呼ぶのだろう。
そんなことを思いながら、その日の演習を終えた。

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