私は生徒のノートに
$$
|a|
$$
と書いた。
彼女はすでに、| |が絶対値の記号であることは知っている。
その中身が具体的な数ならば何度も扱っている。
\(
|5|=5
\)であり、\(
|-5|=5
\)であることも知っている。
彼女にとって絶対値は、すでに片づいた話だった。
私は続けて
$$
|a|=
$$
とだけ書き足した。
「さて、何に等しいと思う?」
彼女はしばらく考えたあと、
$$
|a|=a
$$
と書いた。
どこか自信なさそうである。
私はその答えを見ながら、なるほどと思った。
半分正しく、半分間違っている。
そして何より、とても自然な答えだ。
そこで私は尋ねる。
「君は\(
|a|=a
\)と答えた。では、\(
a=-5
\)だったらどう答えたことになるんだろう?」
彼女は黙っている。
私は続ける。
「\(
|-5|=5
\)であることを君は知っている。
理解したつもりでいたはずだ。
だが、いま君は\(
|-5|=-5
\)と答えてしまっていることに気がつくかい?」
生徒はノートを見つめる。
やがて小さく首をかしげる。
どうやら何かがおかしい。
自分でもそう思い始めたようだ。
私はさらに
$$
|-b|=
$$
と書いた。
「では、これはどうだろう?」
今度の答えは早かった。
$$
|-b|=b
$$
である。
これもまた、半分正しく、半分間違っている。
面白いことに、さっきとは逆の方向へ間違っている。
$$
|a|=a
$$
と答えたときには、絶対値は何もしないものだった。
ところが
$$
|-b|=b
$$
と答えたときには、絶対値はマイナスを消すものになっている。
彼女の頭の中では矛盾していない。
どちらも「絶対値らしい答え」なのである。
だから私はまた尋ねる。
「では、\(
b=-3
\)だったら?」
彼女はノートに代入してみる。
すると、
$$
|-(-3)|=-3
$$
となる。
「左側はいくつになる?」
「3です」
「右側は?」
「-3です」
「等しい?」
彼女は首を横に振った。
やはり何かがおかしい。
私はこういう瞬間が好きだ。
私が間違いを指摘したわけではない。
生徒自身の考えが、生徒自身の知っている事実とぶつかったのである。
数学の授業では、こういう瞬間が案外いちばん大切なのではないかと思っている。
新しい考え方を教わる前に、自分の考えが行き詰まる経験をする。
定義を覚える前に、その定義が必要になる理由を知る。
絶対値の定義も、私はなるべくそのように出会わせたい。
いきなり
$$
|a|=
\begin{cases}
a & (a \geq 0) \\
-a & (a < 0)
\end{cases}
$$
と教えることもできる。
だが、それではただの約束事に見えてしまう。
そうではなく、
$$
|a|=a
$$
では困る。
$$
|-b|=b
$$
でも困る。
では、どうすればよいのだろう。
そこまで考えたあとで現れる定義は、少し違って見える。
覚えなければならない規則ではなく、必要に迫られて生まれた規則に見えるのである。
定義を説明することはできる。
例題を示すこともできる。
だが、理解そのものを手渡すことはできない。
理解の瞬間は、はなはだ個人的なものである。
だからこそ私は、その少し前に立ち会いたいと思う。
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